東京地方裁判所 昭和41年(特わ)718号 判決 1969年6月25日
主文
被告人は無罪。
理由
一公訴事実
本件公訴事実は、「被告人は、東京都荒川区町屋四丁目二四番一七号に工場を持つてプレス加工業を営み、所得税の納税義務がある者であるが、昭和四一年九月一二日午前一〇時五〇分ごろから同一一時三五分ごろまでの間、右工場入口で、東京国税局荒川税務署所得税第二課所得税第二係長大蔵事務官友井淳一、同第二係勤務大蔵事務官森啓の両名が、被告人に対する昭和四〇年分所得税確定申告調査のため、同人および被告人の長男広田真一に対し質問するとともに、右事業に関する帳簿書類を検査しようとしてその呈示等を求めた際、右真一と共謀のうえ、右両名に対し、『何度話しても同じだ。もう帰つてくれ』、『生活の保障がない限り答えられない』、『調査はさせない』などと呶鳴りながら両手で右森の腰部を押すなどし、もつて右友井らの質問に対して答弁せずかつ検査を拒んだものである」というのであり、検察官は、右の事実が刑法六〇条、所得税法二四二条八号に該当する旨主張している。
二公訴事実に関して認められる事実
<証拠>を総合すると、次のような事実が認められる。
被告人は、東京都荒川区町屋四丁目二四番一七号に居住して、同所でささやかなプレス加工業を営んでおり、昭和四〇年分の所得税については、昭和四一年三月一一日に荒川税務署長に対して確定申告書を提出し、同年四月六日に申告にかかる税額を納付した。
荒川税務署では、被告人の右確定申告について、(イ)前年分の確定申告と対比して所得金額が約九一パーセントに減少していること、(ロ)前年には事業専従者になつていた被告人の長男広田真一が、今回は事業専従者からはずされていること、(ハ)家族が九名で、それによつて推測される生活費との対比から、申告所得金額が過少とみられること、(ニ)家族の住居が二個所に分かれていること、(ホ)外観調査による事業規模や生活状況からみて、申告所得金額が過少と疑われることの諸点を総合して、被告人の確定申告について調査の必要があるとし、同年八月一八日と同月二三日の二回にわたり、同税務署所得税第二課第二係員大蔵事務官森啓が被告人方におもむき、さらに同年九月七日、同課第二係長友井淳一が右森事務官と共に被告人方に行つたが、いずれも被告人らとの押問答になつて、調査の目的を遂げることができなかつた。
そこで、友井係長と森事務官は、ふたたび同月一二日午前一〇時五〇分ごろ、被告人方に出掛け、被告人とその長男広田真一に会つた。そして、友井係長は、昭和四〇年分の所得税につき所得税法二三四条の質問検査権にもとづいて必要があつて調査するということおよび調査に応じないと罰則にふれるということを告げたうえ、帳簿書類を見せてほしい、得意先、仕入先の住所氏名をいつてほしい、工場内を見せてほしいという趣旨を述べたが、被告人は、見せられない、いえないと述べ、その前後に、真一が「何度話してもおなじだから、もう帰つてくれ」というようなことをいい、また被告人が「生活の保障がないかぎり答えられない」という意味のことをいつたりもした。そして、押問答のすえ、最後には、友井と真一との間に、友井が右手を打たれたと感じて、「暴力で調査を拒否するのか」といつたりするようなやりとりがあり、同時に、被告人が森のからだを押すというようなことがあつた。しかし、いずれにせよ、被告人ないし真一の側に、刑法上特に暴行として問題とするに価するほどの行動があつたわけではない。
三所得税法二四二条八号の罪の成立要件
所得税法二四二条八号の罪の構成要件は、同法二三四条一項の規定による当該職員の質問に対して答弁せず若しくは偽りの答弁をし、又は同項の規定による検査を拒み、妨げ若しくは忌避することである。そして、同法二三四条一項は、「国税庁、国税局又は税務署の当該職員は、所得税に関する調査について必要があるときは、次に掲げる者に質問し、又はその者の事業に関する帳簿書類その他の物件を検査することができる」と定め、同項一号は、「納税義務がある者、納税義務があると認められる者」その他を掲げている。
ここに、「納税義務がある者」、「納税義務があると認められる者」というのは、たしかに明確な表現ではないが、質問検査権に関する立法の沿革および所得税が申告納税方式によるものであることを考慮すると、「納税義務がある者」というのは、確定申告書を提出することにより所得税の納付義務が確定している者(その税額の全部または一部をすでに納付しているかどうかを問わない)を意味し、「納税義務があると認められる者」とは、確定申告書を提出していないけれども、客観的、実質的に納税義務が成立しているものと合理的に推認され、確定申告書を提出すべきであつたと認められる者を意味するものと解すべきである。
従つて、本件の場合、被告人は「納税義務がある者」にあたることになる。なお、本件では被告人の納付すべき所得税に関する調査のための質問検査が問題となつているのであるから、広田真一は、「納税義務がある者」でも、「納税義務があると認められる者」でもありえないことが明らかである。
ところで、所得税法二三四条一項にいう当該職員(この概念を特に不明確ということはできない)は、所得税に関する調査のため、合理的な必要性があるかぎり、同項各号に掲げる者に質問してその任意の回答をえ、またはこれらの者の任意の承諾をえてその者の事業に関する帳簿書類その他の物件を検査することが許されるのであり、その許される場合は、きわめて広範囲にわたるものといつてよい。しかし、右のような質問ないし検査(させること)の求めに対する単なる不答弁ないし拒否が同法二四二条八号の罪を構成するためには、さらに厳重な要件を必要とするものといわなければならない。なぜなら、当該職員が必要と認めて質問し、検査を求めるかぎり、不答弁や検査の拒否がどのような場合にも一年以下の懲役または二〇万円以下の罰金にあたることになるものとすれば、事柄が所得税に関する調査というほとんどすべての国民が対象になるような広範囲の一般的事項であり、しかも直接公共の安全などにかかわる問題でもないだけに、刑罰法としてあまりにも不合理なものとなり、憲法三一条のもとに有効に存立しえないことになるからである。すなわち、所得税法二四二条八号の罪は、その質問等について合理的な必要性が認められるばかりでなく、その不答弁等を処罰の対象とすることが不合理といえないような特段の事情が認められる場合にのみ、成立するものというべきである(なお、このように解するかぎり、所得税法二四二条八号について、憲法三五条あるいは三八条一項違反の問題も生じる余地がないものといわなければならない)。
本件のように、「納税義務がある者」すなわち確定申告書の提出者に対する場合には、必要があるかぎり、確定申告書ないしその添付書類の記載自体(その根拠に立ち入るのではなく)に対する説明を求めるため、刑罰を背景として質問することは、もとより許される。また、青色申告の場合には、所得計算上および納税手続上の特典があるかわりに、所定の帳簿書類の備付が義務づけられているのであるから、これらの帳簿書類の検査を拒否すれば、処罰を受けることもやむをえない。
しかし、被告人のように、一般のいわゆる白色申告者である場合には、単に、帳簿書類を見せてほしい、得意先、仕入先の住所氏名をいつてほしい、工場内を見せてほしいといわれただけで、これに応じなかつたからといつて、ただちに不答弁ないし検査拒否として処罰の対象になるものと考えることはできない。荒川税務署が、前記(イ)ないし(ホ)の諸点を総合して過少申告の疑いを持つたことが合理的であるとしても、それだけの事由で、刑罰の威嚇のもとに、包括的に帳簿書類一切を見せることを要求し、包括的に得意先、仕入先全部の住所氏名を告げることを要求し、さらには工場内を見せることを求めることが合理的に許されるものとは、到底いいがたいのである。税務署の係官としては、すくなくとも、やはり、(イ)ないし(ホ)の諸点を述べて、これに対する被告人の応答を聞くという方法を選ぶべきであつた。そのような方法をとれば、その過程で、あるいは、刑罰の背景のもとに、刑罰を警告したうえで、特定の帳簿等の呈示や特定の得意先等の告知を求めることなどがあえて相当性をもつものとして許されるような特段の事情が生れることも、ありえないわけではない。ところが、本件の場合、友井係長も森事務官も、当初森事務官が一人で行つたとき以来、ただ調査の必要があるからというだけで、その理由は、被告人らから再三聞かれても、一切意識的にこれを説明していないのである。
そもそも、税務当局としては、国税犯則の嫌疑があつて真に強力な手段を必要とするならば、国税犯則取締法にもとづき、裁判官の許可状を得て、臨検、捜索または差押ができるのであり、司法官憲の令状発付手続の介在による抑制の作用しないところで、係官の任意の選択により、安易に一般的、包括的に、答弁や検査承諾の間接強制が許されるものと解することは、なんとしても不当である。
要するに、本件の場合には、被告人の前記のような行為は、これを処罰の対象とすることが不合理といえないような特段の事情が認められないため、所得税法二四二条八号の罪を構成するに足りないものといわなければならない。
四結論
以上のとおり、本件公訴事実については、結局犯罪の証明がないことに帰するから、刑訴三三六条により無罪の言渡をする。
なお、本件の捜査および訴追が民主商工会運動に対する弾圧、特に荒川民主商工会の組織破壊をねらいとするものであり、本件公訴提起は、公訴権乱用の場合にあたり、不適法であるという弁護人らの主張については、公判にあらわれた種々の資料によれば、本件の実質的な背景になつているのは、税務当局による民主商工会運動に対する規制措置ないし反撃であるとみることもあながち根拠がないものとはいいがたいし、また、被告人方を実際に見れば(当裁判所の検証調書参照)、なぜにこのような零細きわまる業者について本件のような訴追をしなければならなかつたのかという疑問を抱くものが多いであろうが、特に、質問検査拒否罪の成立要件が従前明確でなかつたことを考慮すると、本件の公訴提起が極限的に不当であるとは到底いえないから、公訴棄却の裁判をすべき場合にはあたらない。(戸田弘 米沢敏雄 堀籠幸男)